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自己紹介

柴田賢一

昭和28年に生まれ、18歳で就職するまでこの地で育ち、学び、遊び、自然の野山が遊び場でした。小学校に入学したころは林鉄線に機関車が走り、木材輸送が盛んでした。
国道39号線が砂利道から舗装に変わり、石北峠を越えて観光バスが連なって温根湯温泉に来るようになると観光時代の最盛期であったと思います。
温根湯に親戚があり、子供時代にはよく泊りがけで遊んだ記憶があります。観光客が多く温泉街はみやげ店が連なり、その呼び声がよく聞こえたものです。
小学、中学校と大和小学校の地に通い、当時は南側の山の手前が我が家でした。
湧き水があり、その水で生活し、周りには田んぼがあり、蛙の声が良く聞こえ、蛍もみられました。その後、稲作から畑作への転換が進み、まわりは畑地に転換されて、現在に近い風景となってきました。
大和の人口はこの畑地転換と木材産業の衰退により大幅に減少することになりました。
私のクラスは27人でしたが、大和中学校最後の卒業生となりました。温根湯中学校と併合となりました。留辺蘂高校に進学し、昭和46年に卒業し、京都に就職することになりました。
9年間の京都での生活から北見市に転勤扱いで異動して、2年後の年に大和に引越して妻と長男、次男と共に住人となりました。仕事は北見でしたので45分の通勤でした。
旭川に2年半ほど転勤となり、また北見に戻り、札幌に異動となり、約10年の単身生活をして北見に戻ってから52歳で早期退職を決断しております。
これは母が要介護状態となり、認知症が進み、家族介護の限界が近づいてきたと自分なりに理解し、妻の負担を軽減させるためでもありました。大和に戻り、北見市での仕事を探すためハローワークにも通い、介護資格の補助を受けることでヘルパー2級、1級となり、介護施設の開設準備をしている法人に採用となり開設して事務長として仕事をしました。しかし、理事長との意見の相違があり、退職して温根湯のグループホームで介護員として仕事をしながら母の介護に協力して取り組みました。
さらに同地の春にれの里むか川(有料老人ホーム)の訪問介護事業所に勤務となり、介護福祉士の国家資格を取得しております。
現在は同施設内のデイサービスセンターむか川の生活相談員から施設内の訪問介護事業所ヘルパーステーションむか川に
異動となり週に4日で週30時間契約に変更して勤務しております。
母が6年前に亡くなり、三男も札幌本社から帯広に転勤となり、妻と二人、犬のチャチャとコロ二頭と猫のクロと
キジとの生活となっております。
地域の自治会長にも選任されて8年目となりました。当地域は残念ながら光回線が敷設されておりません。全国的にも
情報化は進んでいると聞かされておりますが、NTTさんの光回線への回答は消極的なものでした。
しかし、私的なADSL回線のホームページを通して地域の情報化への推進を促進させたいと考えております。

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