大和の歴史 3
相次ぐ大火により 美林を喪失する
昭和二十二年五月、大和四区の南側国有林において留辺蘂営林署の自活畑の開墾のための火入れの飛び火により、それより東の国井定彦の山林に至るまでの間、数十町歩の面積を焼失する大山火事となり、部落民は連日にかけて消火に当たったが、その時期は丁度、馬鈴薯の播き付けにあたっていたので、切った種薯が乾いてしまい貝殻のようになってしまった。
超えて二十七年五月に厚和一区方面より出火があり、折からの強風に煽られて厚和一区、滝の湯二区の農家数十戸を焼失させ、南北南岸の山地に延焼して、一時は煙をともなった強風に眼も口も開けられずに歩行も困難なほどであった。留辺蘂の全町を挙げて消化にあたり二、三日後に丸山の中腹まで延焼したが、そこで止まり小康を得て消火の期待をした。状況を見るため監視員を駐山させておいて、一般消火隊は一旦引き上げた。しかし数日後にまた強風に煽られて再燃してしまい、たちまち猛火となり、一挙に丸山の山頂へと燃え上がってしまった。その凄まじさは壮観と言うか凄惨と言うべきか将に言葉にならぬ程であった。
丸山裏側の台地から大和四区南高台の民有林に至り、併せて数百町歩にも及ぶほどの焼失面積となった。山火事の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。
幸いにも人畜に被害はなかった。これ以来、山火事予防対策が特に厳しくなり、三十号鉄橋の南岸の山頂に鉄塔を建て、春から初夏にかけて山火事多発時期には監視員を常駐させて厳重な監視にあたった。一方では防火巡視員を配置して山林をパトロールするなど警戒態勢が強化された。
そのせいか町民の自覚によるものか、その後の大火はなくなった。不断の対策こそ大切と思う。
昭和二十六年頃に温根湯有志の集いである「喜交会」の町政を検討することに端を発して、温根湯分町問題が起こった。温根湯の照恵寺において町民大会が開催され、分町期成会が結成され、会長には関量一氏が選出された。以来、熱烈な運動が展開された。隅々まで分町問題が議員提案として町議会に提出され、否決されるにおよんで町民の圧力によって温根湯地区の議員の総辞職するところとなり、町政に不参加することをもって留辺蘂地区に対抗したのでした。途中で会長の更送が行われ、松浦朝治、宮本勝、等の幹部により強力な運動が行われたが、時、恰も(あたか)町制合併が法制化されて着々とその実績を挙げている最中であった。
さらに二十八年夏に温根湯市街の大火が発生し、戦意が消失する等の事態となり、道庁地方課長、網走支庁長、西川道議会議員、上原町村議長会会長、谷本町村会長等の斡旋により温根湯地域は議会に復帰することとなり、今後正式に議場においてこの問題の解決を図ることで一応の矛を収め、補欠選挙をもって温根湯地域より十名の議員を送ることとなった。二年有半におよぶ町政の変則も正常化された。しかし時代の推移は分町どころではなく、さらに合併の推進されるところとなり時代に逆行するものとして自然消滅的に鎮まった。
留辺蘂地区と温根湯地区は開町以来からの対抗意識が強く、国鉄石北線の駅を持ち、北見市に近く、更に置戸、佐呂間、生田原等の近隣市町村等への出入り等、地の利を有利とする留辺蘂側と温泉、森林、農業等資源において優りとする温根湯側との優先意識は常に町制に不平不満をもたらし、以前にも二度の分村問題が起こっている。
国道三十九号線の開通以来、奥地の開発が優先されて、特に滝の湯地区の温泉開発、町営牧野の造成、農道林道の開さく、農業構造改善事業の導入や温根湯役場支所の設置など温根湯地域に対する重点施策は町全体の発展に寄与するばかりでなく、再び温根湯地区をして分町等のいまわしい問題が提起されないことを望むものである。
大山火事の跡地は数年にして唐松、とど松等が植えられて緑豊かな山となった。
大和の学校においても昭和三十二年十月に学校の部分林が認可となり、翌三十三年に田上校長、稲田PTA会長のときに、児童、父兄の出役によって二町八反六畝歩の面積にとど松を植樹した。以来、PTAの手により撫育がなされており見事な美林となっている。
道路・水道・電話の開さく施設が相次いでなされる
かねがね留辺蘂からの上川越えは夢であり、蝦夷山脈は厳然としてその交通を阻んでいた。昭和二十五、六年頃、小野寺助役以下十数人の調査団によって層雲峡まで踏査が行われ、その後に猛烈な道路の開削運動がなされた。峠あたりの国境の工事は困難を極めたが、数年かかって三十七年に舗装化がされて、路面に字の書けるアスファルト道路の夢が実現、達成された。
昭和三十五年に川北地区に水道が敷設された。この地区は沢水を飲用に供するため、各沢に住居を構えるものが多かったが、土地利用の関係上、台地に住宅を持つ者は遠くても沢におりて水を汲み、また、雪どけや大雨のときは濁ってしまい飲用に供することはできない等の水に対する苦労は多かった。町は隅々において新農村建設事業が行われることに当たり、この制度に載せて水道事業を実施することとなり、国の補助と川北地区住民の労力提供によって完成することができた。川北会館の前にこの事業を記念する碑が建てられ、木村正義給水組合長以下の名が記されており、その努力の跡が偲ばれます。
昭和二十四年に農協の有線放送施設ができて、農家の一戸一戸に配線されて岩瀬商店、大木稔宅等を中継所として放送事業が開始された。新しい村づくりのシンボルとしてさっそうと登場したのでした。その後に電電公社の電話が普及されるまで、楽しい村の放送機関として大いに活躍しました。
昭和二十六年夏に温根湯と大町(イトムカ)間にバスが開通し、奥地(厚和、富士見、大町)住民の足として大変便利になった。
二十八年に花丘、川北、滝の湯地区の一部、大和三区、厚和、富士見地区に電灯線が架設されることとなり、温根湯農村電化組合が設立され、木村直身を組合長にして石本誠等組合員が一致団結してその完成に努力した。これを以って川北三区の一部を除いて温根湯地域全地域にわたり電化され、無電地帯の解消という夢が達成されました。
翌、二十九年には消防施設ができた。留辺蘂消防団第四分団として分団長に本田貞治が就任し、十数名の団員と共にトーハツポンプ一台を以って結成されたのでした。
又この当時の婦人層においても、地域婦人部、農協婦人部、母と先生の会等の諸団体ができており、大いに活躍しました。戦後強くなったものに「婦人と靴下」などとの揶揄もあったが大和も例外ではなかったようです。岩瀬キエ、小野はるえ、東海林ゆきえ、岩瀬愛子等が幹部となり、学校教育に、婦人の研修に、地域社会の発展等に寄与するところ大であった。
二十八年十二月、生活改善発表大会が大和小学校を会場に開催され、多数の参加を得て盛大に実施された。老若男女の十余名による真剣な発表がなされたが、その仲に社会教育の一環として公民館活動に寄せる話題が多かった。従って公民館建設への希望が多かった。そもそもこの催しは公民館建設を意図するもので山梨寿雄、本田豊信、岩瀬キエ等の策であったが、野津教育長をしていたく感激せしめたことで大成功をおさめた。越えて翌三十年十月に公民館建設促進のための部落大会が大和小学校で行われ、熱心な討議がなされたが、席上で金山為市会長が転倒し、大騒ぎとなり早速に梶浦医師の急診を受けたのだが、その甲斐なく二時間後に逝くなったのでした。脳血栓ということでしたが、公民館に殉じたものとしてその死が惜しまれました。
以来、金山氏の弔い合戦的に住民意識が大いに燃え上がり、山梨寿雄、本田豊信等は置戸町の公民館を視察に出るなどして、これを基に設計試算をして、町に折衝したが、町長の壁は厚く建設は容易に進展しなかった。そこで大和公民館建設促進期成会を結成し、会長には山重寛三を選び、再三再四と折衝を重ねた結果地元で建てて、町がこれに助成することで大筋は決まったので、早速に設計に合わせて国有林より建築用の木材の払い下げを申請した。このことについて留辺蘂営林署は公民館の性格論から言って部落には払い下げは行わない見解とのことで、再び町長と折衝し、町長名で出願し直して払い下げが決定された。
昭和三十二年十二月より三月までで五百石の造材を終了し、武華木材の土場に集積した。
この材は九十九林班で、十五号台風で倒れた木が多いが、立派な木であったので部落の人の奉仕的低賃金で造材された。時の造材監督は本田豊信、山頭は黒滝由松であった。
翌昭和三十三年に全面的に町に於いて建設することに変わったので、木材は町に引き渡し、地盛りの客土は部落の奉仕により提供され、工事は留辺蘂の工藤組の手によって同年の十一月に完成した。
この公民館は留辺蘂、温根湯に次ぐもので、その内容や備品等についてもほとんどが部落民の寄贈によるものが多かった。
地域住民の集会、研修の場としては勿論であり、青年団の会館的な役割を果たし、とりわけ青年女子の和洋裁の研修会場として利用されました。 後に広く社会教育の場としてまた、三十八年四月よりは保育所としてその役割を果たしたのでした。
保育所は婦人部の強い要望により開所されることとなり、自主的に運営することになって、運営委員長に本田豊信が就任し、所長に鈴木英一校長が任命され、主事に角方喜善教頭、保母に大橋靖子、藤田久子先生を迎えて園児は五十余名を以って開所された。この保育所の開設によって幼児の保育と母親の農作業や家事への手間(負担)が省けることとなった。後に二階を使用するについての不都合なことなどの問題があり、町より富士見小学校の屋体を払い下げを受けるために佐野運営委員長を先頭に部落民総出の奉仕によって解体から運搬、再建築まで行い、町から百万円の助成を得て、昭和四十三年三月に完成し、独立園舎として発足することになった。四十六年からは町営となった。自主的運営がなされた八年間は時の学校長、教頭先生方の奉仕によって運営に当たられ、無事故で終始できたことは誠に感謝に堪えません。
歴代役職員は次のとおりである。
初代所長 鈴木英一校長 初代主事 角方 喜善教頭 初代運営委員長 本田豊信
二代所長 花田寅吉校長 二代主事 安藤秀作郎教頭 二代運営委員長 佐野与蔵
三代所長 前田 貢校長
保 母 大橋靖子 藤田久子 木村るみ子 森田千恵子 大野久子
昭和三十六、七、八年と相次いで水道が敷設され、釣り瓶から手押しポンプ、ホームポンプへと水汲みの歴史は変わっていきました。滝の湯給水長は佐野与蔵、大和給水組合長は本田貞治が当たった。
公社電話の普及により三十八年に地域団体加入電話ができた。公社からこの話が出てから、先進地の網走郡津別町活吸の電話組合を視察し、これをモデルにして大和地域団体加入電話組合を設立したのでした。
組合長に本田貞治、副組合長に本田豊信、事務局長に森常雄、交換手に黒宮諄子、高橋清子等が就任し、大和、川北、滝の湯全区、厚和一区の一部、平里の一部の百余戸の加入を以ってその業務が開始された。大和郵便局舎の後ろ側にささやかながら電話交換所ができ、更に四十六年のダイヤル式に変わるに及んで交換所を廃止し、電話組合も解散しました。
この組合を運営の間、佐野吉子、柳谷美恵子、本田節子等の交換嬢たちが従事しました。この組合はモデル組合として管内の後進地から視察があり、その運営は円滑に行われ、区域内の通信連絡機関として大きな役割りを果たした。
昭和四十四年三月、児童数の減少、激減により大和中学校が温根湯に統合されることとなり、四十八年三月には厚和小学校が廃校となり、大和に統合されることとなった。
同年の秋に厚和小学校の校舎は留辺蘂更生園の女子寮となり社会福祉施設として活用されることとなり、更に五十年には増築されて園生七十余名を容し、精薄者の授産と社会復帰に寄与している。
留辺蘂町郷土史研究会では渡辺竜雄会長を陣頭に葛西社教主事等の会員による史実の究明に懸命の努力がなされてきたが、とりわけ道内の町村の開拓資料館を視察し、これ等を参考にして昭和四十五年より四十六年にかけて広く全町に呼び掛けて開拓資料を募集し、佐野与蔵氏の所有の旧武華駅逓跡に留辺蘂町開拓資料館を開設し、開拓以来の貴重な文献や住まいや衣料、農具や山林用具等を陳列し、これらを保管することになった。当地域においては佐野与蔵、本田豊信、安藤李作郎、松浦幸吉、山梨寿雄等が会員として活躍した。
この資料館は貴重な郷土史料の保存と展示の責を果たすばかりでなく、北海道の動脈たる国道三十九号線沿線の唯一の駅逓旧跡として通行者や外来者の足を駐め、さらに温泉場である滝の湯の観光に一風物詩を添えるに至っております。
昭和四十五年に農免道路として花丘、川北、滝の湯一区、武華川左岸の道路が全面的に改修され、次いで四十九年には国道三十九号線より川北農免道路に至る間の道路改修と川北橋の永久橋への架け換え工事がなされた。また、四十八年より三ケ年に亘り二十四号線より南高台地帯の大和、平里、松山を結ぶ循環道路がこれまた、農免道路(舗装)として完成した。これらの道路は産業道路として南北両高台地帯の動脈であり特に牛乳運搬路線として大きな役割を果たしており、地域住民に活用されている。
昭和三十八年三月二十八日、大和校開校記念日の二十八日に因み、開校五十年記念祝賀会が大和校において盛大に開催された。
残雪を留める校庭を臨みながら、学校の屋体を埋めた児童生徒、来賓、地域住民、同窓生等の七百人が相集い、幾年、或いは幾十年振りで遇う人々、或いは恩師と生徒の顔と顔、唯々懐かしさで一杯で将に感激のる壺であった。 今はすっかり成人した生徒にもみくちゃにされている先生方をみて、先生職は冥利につきると思うのでした。
協賛会長は岩瀬豊、副会長には岩瀬栄、山重貫三、松浦幸吉が当たり、学校側は鈴木校長、福田教頭以下十二名の教師等、児童生徒は小中あわせて三百数十名で開校以来で最高潮の時であり、事業費も二百数十万をかけて校舎内外の整備や教材教具の充実を図った。
滝の湯温泉の開発
大和校下そして地域の「オアシス」として滝の湯温泉は岩瀬禎助が野村鉱業に売却して以来、久しく手を付けられずにあり、荒れるにまかせて僅かに木の浴槽だけが残っており、地域住民の憩いの湯として利用されていたに過ぎず、良質の湯はいたく惜しまれていたが、昭和三十五年頃に宿泊施設を備えた野村鉱業保養所が建設され、更にボーリングによって多量の湯が湧出したことによって俄かに脚光を浴びるに至った。
地元出身の町会議員である末久順一、岩瀬豊等はこの温泉を広く町民の湯として開発しようとして、当時の町長である藤倉功を動かし、ようやくと町営温泉の下地を造ったが、翌年の四十二年に坂本町長の代に移り塩別温泉の湯を一部譲り受けて加熱して、簡易な宿泊施設を備えた町民温泉を建設した。
次いで四十七年に湯量を増やすために三十号の黒滝の沢の冷泉を千五百メートル余りにわたり引き込みしたが、いづれも加温することで温泉としての価値は半減し、町民の多くは自然の温泉を希望した。
坂本町長はこの温泉開発に意欲を燃やし、四十九年の夏、地下七百メートルにわたりボーリングを行い、出口で四十三度で毎分三十リットルの湯の自噴に成功した。ついに凱歌を挙げるに至った。
更に浴槽や客室は増設されて町営温泉滝の湯荘は名実ともに町民の保養センターとなった。この湯は老人ホーム静和荘、郵政互助会運営の静林荘にも割譲し、在来の塩別温泉と共に温泉街を形成するに至った。
つるつる温泉のその名のとおり湯質の柔らかなことは他に例がないほどに評判が良く、保養には打打ってつけの湯であることから、観光とは別の意味で「湯を楽しむ」湯として広く国民に親しまれると期待された。
更に昭和五十一年(本年)にさらにボーリングを敢行し、多量の湯が湧出することになれば、大病院の建設も計画されるとの期待もあり、滝の湯地区は将来には国民健康福祉のセンターとしても有望と、湯の果たす役割は大きく、公営住宅やガソリンスタンド、ドライブイン、食堂など三十九号線に結びついた施設とともに一大市街地を形成するであろうと期待され、坂本町政の功績として永く後世に伝えられるであろう。
大和小学校の新築
昭和四十七年以来、前田校長、本田、佐野歴代PTA会長等は末久、岩瀬、尾崎等地元出身議員と呼応して町に対して学校の新築を要請し続けたが、坂本町長、松谷教育長等の特段の行政配慮によって、四十九年秋に校舎の新築を決定した。新任の山崎校長を迎えて大和小学校建設促進期成会を結成し、会長に佐野与蔵、副会長に本田貞治、本田豊信、事務局長に安藤教頭を選任し、その促進と充実を期することとなった。
昭和五十年七月より松谷建設によって着工し、教室の外郭、基礎コンクリート工事が大方に完成した時点であったが、十一月に不審火による火災で仮校舎である屋内体育館を全焼し、教材教具と学校の歴史的多くの資料を失ってしまった。児童、生徒は公民館、大和二区会館に分かれて仮校舎での授業を受けることとなった。松谷建設の懸命な突貫工事によって予定よりも早く、十二月二十日に新校舎は完成したのでした。
この日に入校式が行われ、先生方に導かれた生徒達の喜喜とした姿をまさに劇的なシーンであるかのように見ることができました。坂本町長をはじめ、矢録教育長、松谷建設社長、佐野PTA会長、PTA役員、他に建設期成会の幹部達が列席した。
屋体は火災により焼失したことで災害復旧工事に載せられて、同年度中に着工し、翌五十一年六月に完成しました。
建設期成会は結成以来、二年有半にわたり建設促進は勿論のこと、その内容の充実に努力しました。
そのために管内のモデル校の視察を行い、校舎や校庭や環境整備等について各担当部に分かれて詳細に調査研究をしました。この間に学校側をはじめ役員諸氏の努力は並々ならぬものがありました。
また新築落成を記念し、大和小学校開校六十五周年記念事業を併せて行うこととなり、校下の地域および広く同窓生の協賛を得て、盛大に実施されることになりました。
特に祝賀会は昭和五十一年七月十七日に新築落成祝賀会と併せて留辺蘂町と共催で新装新築となった屋内の体育館で行われました。
過疎に思う
開拓、開発の流れに沿って農、林、鉱、観光の四本の柱に支えられて管内に誇った資源王国の留辺蘂町もその資源は或いは枯渇してきており、或いは時代に取り残されて、過疎町村の指定を受けるに至ったことはまことに遺憾に堪えません。
農業についてみても、何年に何某が何処に入植して開墾したなど。その粒々辛苦のほどは言語に絶するものがあった。と開拓誌に記録されていても、その土地は今や荒廃地と化し、或いは山林となっていては先人の労苦を讃えるどころか、かえってこの様な土地にへばりついて生きていたことを嘲るかのごとくである。
しかしながらこれ等の大地は幾十幾百人の命を支え育んできた源泉であり、これ等の土地に育った人達が広く社会に活躍し、貢献していることを憶えば、荒廃した大地を再び、あの潤沢な耕地として甦えらせたいものであります。
開拓史を開くと何年には道路ができて、次いで電気だ電話だ水道だと大和地区は次々と開拓され、便利になってきたが、これに反比例して便利になればなるほど人は減少し、過疎に拍車をかける結果となった。
曽って佐野翁の言葉を借りれば「便利とは金だ」と言うことで何と言っても収益第一主義であります。
収益性の低い土地は次第に農地から消えていくのであろう。また観光地だけで真の観光事業は成り立たないのです。道々に美しく耕された農場を傍らに観ながら観光地へと向かう車中の眺めこそ観光そのものではないでしょうか。
滝の湯温泉の開発は当地域の過疎化に歯止めをかける結果となったが、この天与の資源を地域住民に結びつけて、さらに沿道四囲の農地を最大限に活用して、名実ともに充実した過疎対策こそ豊かな町づくりにつながるものと信ずるものであります。
部落の沿革・編集後記
今般、大和校開校六十周年記念事業の記念誌が発刊されることになり、校下地域の沿革を記述することができたことを誠に光栄と存ずると共に、同慶に堪えません。兼ねて私は留辺蘂町郷土史研究会の一員として町の貴重な史実の保存とその普及に当たって参りましたが、会長の渡辺竜雄氏を始め、先輩同志諸氏の指導を得て、我が愛する郷土留辺蘂町に対する理解を一層深め得たことを喜んでおります。
憶えば明治の末期、千古斧越のこの大地に開拓の鍬が打ち込まれて以来、六十有余年、その間、時代の変遷は誠に目を見はるものが有りますが、その陰には多くの先人の苦労と尊い犠牲があったことを痛感するのであります。又、開拓以来その途上に於いて何か事をなすに当たっては、必ず問題が起き、トラブルが生じて、それ等はその都度解決された訳だが、常にその中核となった指導者達の努力の跡が偲ばれるのでありまして、地域社会の発展はひとえに人の和と地域住民の幸せへ向かってのひたむきな精進努力と団結にあると思います。諺にも「一人は万人の為に万人は一人の為に」とか、、、、、、、。
この度新しい立派な学校ができ、盛大な記念行事が行われる、このことを契機として互いに敬愛し、常に社会奉仕の念を以って全力を傾注し、より良い郷土の発展に寄与されることを記念してやみません。
本誌の編集にあたり、不肖残学非才の度、文章も拙劣(せつれつ)で汗顔(かんがん)の至りであり、更にその調査不十分の為十分意を尽していないもの、或いは洩れたもの或いは間違い等があり、失礼の数々あることと思いますが、何卒お許し願いたく、尚又この記念誌の編集に当たり部員各位の御協力を心から感謝致します。
昭和五十一年六月 本田 豊信 記
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