大和の歴史 1

大和校下部落の沿革 瀬島能登・美濃誠策 等の指導者 入植

 明治32、3年頃福島県人の田辺清松ほか6名が武華原野22号線以西から29号線までの間75万坪を道より賃下げを受けて集団移住してきたが、人跡未踏の原始林に驚き、かつ不便と夏の7月末というのに奥地の高山に雪があるのを見て将来の農耕は不適と判断し、希望を捨てて帰った。
その後年代は不詳であるが、胆振の国留寿都村出身の道会議員 加納富貴松氏がこの権利を買い、内地から小作としての移民となる移住者を募集し、現地に入植させ、ほかにアイヌ人数戸もいれて開墾させた。
開墾は極めて困難なものであったが、鹿や野ネズミの害が激しく、開墾に出かけた留守中に幼児が頭を噛まれるほどであったし、夜は熊、キツネ、タヌキ、鹿、テンなどの吠える声がコダマして寂しく惨めなものであったから女子供たちは怯え切り早々の帰国を迫った。そして折角 開墾の緒についただけで第二次開拓者達も去っていった。  この地には2戸だけが残った。

 当時、留寿都にて医院を開業していた広島県人の瀬島能登は加納と懇意の仲であったから、彼の奨めもあって、この土地を一括 壱千五百円で買い受けし、氏を頼って来道した。
瀬島は医院の手伝いをしていた同県人の美濃誠策を同地の開墾の管理者として入植させることにした。
明治41年美濃は同志二人に送られて名寄まで汽車に乗り、これからは徒歩で一の橋より蝦夷山脈を越えて興部、下湧別、遠軽、佐呂間、留辺蘂を経て現地に入った。この間 夜具や手回り品を持った山越えには難渋したが、駅逓で泊まり馬を借りて運んだ。借馬は次の駅逓に着いたら追い返すと独りで元の道を戻っていったそうである。また荷物は小樽まで出して、船便で網走へと送った。だから後日、網走まで荷物を受け取りに行かなければならなかった。当時の鉄道は名寄線は名寄まで、池田線は陸別までであって、網走方面はまだ敷設されてなかったから、網走管内に入るにはこれらの地点から入植に入ったのである。

 美濃は現在の大和1区 蓮井勇の土地へ入ってきて見て驚いた。十数戸もある筈の開拓農家が及川某と
アイヌの丹野勝吉の二戸だけであった。少し下の二十二号線沿いに浦山林蔵がおり、その下に川田清太郎が入植していた。浦山林蔵は明治40年に現在地に入地し、アイヌを友としてこの地を開墾した。当時としては留辺蘂では最も奥地の入植者であったから、文字通りの草分けで、その苦労ひと方ならぬものがあったことは言うまでもない。しかし、彼はよく後進の世話もし、この地方開拓の功績は実に大なるものがあった。彼の長男の松島は小学校入学の適齢期になっても学校へは行けず、二年生の時に留辺蘂の分教所に入学したがあまりに遠いので三日だけ通ってやめた。翌年温根湯に分教所ができたので三年生に入学し四年生を途中で、西武華分教所(現在の大和小学校)に入学した。アイヌの子供たちを友として魚を獲ったりブドウやコクワを取ったりして山遊びや木登りが日課であったから今様のターザンともいうべきものであったろう。

駅逓とは北海道長官の命を受けて道内の要所に設置され、家屋と官馬を貸与されて、旅人の輸送や荷物または郵便物の輸送を受けていたし、旅人の唯一の宿泊所であった。
網走喜多山牧場を一号とし、端野の緋牛内を二号、相ノ内を三号、留辺蘂は四号、佐呂間が五号とされ、旭川は十二号と順位に名称が付けられていて、本道開発への功績は大なるものがあった。
元四号駅逓は今の丸山付近にあり、この地をルシュッペとアイヌは呼んでいたが、和人はルベシベ駅逓と呼び、後に駅名もルベシベと称して、ひいては町名にもなりました。
当時の地名は野付牛村大字生顔常村字武華原野と呼んでいた。野付村に戸長役場があり、武華川北岸以東を野付牛とし、南以西を生顔常と境としていた。(当時区画制ができていなかったから村界は不詳)
明治31年以前には、この村には一人も定住者がいなかったので、後の大正4年に分村するまでは野付牛村役場の所管になっていたもので、当時 野付牛村外一カ村の戸長役場といった意味と解される。

明治43年3月 瀬島能登一族が入地した。氏は開墾が意外と進捗してないのに驚き、早速 小作者を募集に出向いた。途中でこの辺りに入植する人達に出逢ったが、これらの人々は網走支庁よりの特定地貸与の指令書を持っていたので瀬島は戸惑った。 氏はその足で網走支庁に出向き調査したところ、この土地はすでに明治33年に貸し付けになっていたもので、この春に成耕期限到来によって道に没収となり新たに特定地として公示されたものであることがわかった。
途中で逢った人地者は新聞や風聞でこの公示を知って、網走支庁に出願し、貸与指令を受けたことが判明した。事情を知った瀬島は役人に懇願し、辛うじて開墾に着手した八戸分だけ売り払い処分で入手し、これを美濃と分けることとした。
特定地とは農場や牧野払い下げに関する開拓のための一制度で、本道に居住する目的で得た移住証明書を持った個人に農耕用地を無償で貸し与え、五カ年の成耕期限内に開墾を了した場合に開墾者に無償で附与された開拓地のことであると解される。
これは附与を受けて登記完了したものでなければ売買できなかったのであるが、土地ブローカー的な輩が家族や親戚の移住証明書や戸籍謄本を取り寄せてこれらの名義で土地を下げて転売したものもあったし
またこれが幾年も潜っていたものもあった。
後に入植した松浦朝治がこの手にかかって手酷い目に遭ったそうである。当時 武華原野一円を一区長が村長の任命で現在の区長のような仕事をしていた。
以前は国沢歴蔵、松井某等がやっていたらしいが、当時は真野弥七(九号)がやっていた。

明治末期の入植者  筆舌につくせぬ辛惨
 当時の留辺蘂付近は宮下町に四号の駅逓があり、光永氏 武華橋の北岸に伊藤商店、丸三木賃宿、橋を渡って柾屋が一軒あった。温根湯への途中には宮下、鶴尾、茂住、森部、松井、真野などが定住していたし、十二号から牧棚が結ってあって馬が放たれており、森重要吉が牧場をやっていた。温根湯市街には国沢歴蔵、大江与四太、槙喜四郎等が温泉旅屋を経営していたし温泉付近に鈴木宇八、松本某等が駄菓子や焼酎を売る店を出していた。ほかにも大月某が茶店を出していたし、石井某が砲代採りをしていた。砲台とは小銃の銃床用木材で四、五尺に切り割りにとったもので武華川流域には良質のクルミのが木が多かったから砲台取りは盛んであった。彼は元祖で砲台取りの石井で有名であった。大通り付近に東海林左エ門がいた。
温根湯から上には十八号に工藤平松、十九号には橘井清松、渡辺忠八、二十二号に浦山林蔵、川田清太郎が入植していた。申し遅れたが二十一号に高橋嘉平が三、四十町歩を領していた。
当時 武華川およびその支流にはイワナ、うぐい、いと、山女等がたくさん棲息していたし、鮭鱒もよく上がった。アイヌは引っ掛けヤスで巧妙に獲ったが特に志気連別川にはたくさんいて背負いきれないほど獲って、その始末に困ったがアイヌに習って燻製にした。塩漬けにしたくとも塩は網走まで行かなければ求められなかったので貴重なものであった。また、一帯には熊もいたし、鹿、テン、キツネ、タヌキなどがたくさんいてアイヌの良い獲物であった。網走、常呂方面のコタンに住む彼らは夏の漁季が終わるとこの奥地にやってきて、狩猟には巧みでテンは弾痕をつけないために罠を仕掛けて獲った。オンネユは彼らの宿泊地で塩別温泉は猟場でもあったから熊や鹿を獲ると皆が寄ってきて、それがなくなるまで食べ且つ呑んだ。オンネユに住む人達はこれらアイヌを相手の物物交換的商売をしていたようである。
アイヌをダマしたり、また食い逃げされたりなどの話題は今に残っている。
また、山野至る所に鹿の角が落ちていて、上中下の質に区分され一刀〆単位で取引された。角買い業者によって集められ、初期は網走から船便で後には貨車で幾台も内地府県へと移出されたというから如何に多く棲息していたかが窺うことができる。
明治44年秋、陸別と網走間の鉄道が開通した。この年内に柴田運左エ門、柴田亀彌、本田吉次、本田栄太郎、藤田万蔵、石田正一郎、大石春吉、森野善作、金井春左エ門、熊谷三郎などが入地した。
この鉄道は網走支庁管内最初の鉄道であったから沿線住民は沸き返った。人々や貨車がどんどん入ってきたし、珍しい果物などもはいってきて野付牛の村々は賑わってきた。暫くして野付牛の開発は急速に進み異常な速度で発展を遂げることとなった。

当時 武華川北岸一帯には人家はなく、二十一号線より二十八号までの間(志気連別沢 本田正治氏所有地以北を除く)を丸玉(鈴木光貴志)牧場といい、二十八号線より二十九号線までの間を井田農場、志気連別沢の一部より南高台地帯松山まで間が峯村牧場といった。当時の着手小屋は拝み合わせの草葺きのものもあったが、大抵は二間に三間の堀立てで、周囲はドロの皮を用いて、丸タルキに割木舞割柾で葺いた土間に松葉を敷いて荒莚(あらむしろ)を重ね、中に炉を切って暖をとる一間造りであった。窓もなく昼間でも家の中は暗かった。
作業は伐木から始まった。巨木が天を貫き、天日も仰げない程に密生し、昼なお暗く、何時倒れたかも知れない倒木が重なっていて手のつけようもない原始林であったから、伐採の経験のないものは大変に難渋した。木の赴くままに何処の方向にも倒した。
危険な目にも遭った。倒した木は玉切って挺で集積して焼いたがトビやガンタはなかったから、全部のことが人力によった。女も男同様に働いた。大きな木があって抜根の上に二人であぐらをかいて鋸の目立てをしたほどであった。
翌44年の冬に小樽の三井物産株式会社へ一戸分の木を二十五円で売った。それで全部の木を伐ってくれるものと喜んでいたら、何処を切ったかわからない程しか伐っていかなかった。当時は角にして出したが、尺三上で松しか伐っていかず、また元コロや芯にすこしでも朱味のあるものは持っていかなかった。それでも三千石以上出したそうである。
二十四号以西はいかにも木が密生していたかが窺われる。自分の土地を探し出すのに二人で三日かかったそうである。
風の強い夜は山鳴りが物凄く、大木の梢のきしむ音が今にも小屋を一潰しにしそうで、ついに小屋にいたたまれず遠い隣家に避難し、火の気のない炉を囲んでまんじりともせぬ一夜を明かしたこともあったそうです。
 初年度は裸麦、稲キビ、そば、白豌豆、馬鈴薯などを播いたが、鍬によるけづり蒔きだったが、秋には豊作で良いものが穫れ、初めての収穫を喜びあった。これらは全部主食となったが、麦や稲キビは全部を臼で粉にした。この作業は婦人の雨の日の仕事であった。
雨の日は男は笹刈りに出た。連日激しい労働は続いた。食事は麦飯や稲キビ飯でそばは上等食であった。
味噌は自家製の速成のもので、大豆がないので白豌豆を使い塩をまぜただけのもので、麹がないから味噌ではないと言った。
夏は刺し足袋といって手で刺した自家製の足袋(冬期間の婦人の仕事であり、何足も必要であった)を履き、冬はつまごを造って履いた。この刺し足袋は体裁のよいものではなかったが、唯一の履物であったので、村会議員の二本松や瀬島などもこれを履いて議会に赴いた。
灯火は小灯で石油は一升か二升で一年間に合った。米、醤油、砂糖などは野付牛まで行かなければ買えなかったからめったに食べなかった。米はまとめて一俵買ったら二、三軒でわけた。春から秋まで蚊やブヨがいて覆面しなければ外にはでられないほどであった。この中で粗衣、粗食に堪え、あらゆる困難と闘いながら、休みなく開墾は続けられた。
当時 郵便物は国沢喜右エ門宅まで取りにいったが、オンネユまでは月に6回、5日目ごとに逓送された。ふるさとからの便りは唯一の慰めであったが、逓送を待つ間、喜右エ門翁の昔話しを聞くのが楽しみの一つであった。
 医療機関とてなかったが、瀬島は医学校出身で医師の経験があり、美濃は薬学校中退で調剤投薬の心得もあったので、病気などはこの人達に診てもらった。
この秋 二十三号線の児玉文吉(相ノ内より出作)の畑よりハッカの種根を譲り受けて約一町歩に植えた。当時は北見ハッカの名声は全道に知れていたから、ハッカを耕作できる喜びはまた格別であった。
 冬がやってきた。現金収入がなかったので、二十二号対岸で丸玉が初めて造材を開始したので、雑役夫として働いた。当時は各府県からの寄せ集めであったので意思の疎通を欠いて、喧嘩、口論が絶えなかった。馬追い頭は加納仁作で仲々に羽振りの効いたものであった。
翌 大正元年 相ノ内より天釜式蒸留器を導入し、共同でハッカの蒸留をやって総収穫の一缶を背負って野付牛まで持って行って、一缶四円六十五銭で売った。これが入植以来の初めての販売収入で非常に感激したものであった。 (以上は本田栄太郎翁の談話による)

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