大和の歴史 2

二人の死者を出した大正三年の大和の大火 大和小65年史より

  大正二年の秋、学校建築の話が出て、部落の協力で建てることとなった。十数人かの協議であるからまとまりが良かった。付近の立木を伐倒して木挽きをやる者、切り込む者などでたちまち建ちあがった。出費は釘代だけであった。また、現在の上武華神社の付近に祠(ほこら)を祭って村の鎮守とした。
大正元年の秋、留辺蘂まで鉄道が開通した。これによって入地者が激増し、これ以降は造材が盛んになったので、留辺蘂は一躍、木材の街として急速に発展した。そしてその発展速度は本道一と評された程でした。
翌、大正二年朝倉郁郎が二十七号添いに定住し、丸玉牧場の造材を始めたし、中牟田や峯村の各牧場も大々的に造材を開始した。二十五号の旧柳沼豊喜の宅地あたりに三井物産株式会社の造材事業部ができ、川岸茂作がその山頭をしていた。また、二十三号では金山正義氏宅あたりに同会社の事業所があって杉本某が山頭をやっていた。これらの木材は全てを武華川を流送により留辺蘂に運んだ。その後、朝倉氏により志気連別川を利用して水車による動力を利用した製材工場を開業した。あたりには従業員の住宅が建ち、開墾のかたわらで工場で働く入植者もあらわれ、さらに商店や床屋もできて武華川の二十七号付近は急速に発展し、気楽街という仮称があった。後の大正十四年に伊賀冬治がこの工場を買い取り、引き続きこの工場を経営した。
大正二年三月、松浦朝治をはじめおよそ十二年(大正十四年ころまで)のうちに大部分の土地の入地を終えることとなった。(別紙参照)
また、大正三年には鈴木宇エ門、翌大正四年には本間 正が丸玉牧場に入地し、同年に武市牧三郎が中牟田農場の三十号付近に入地した。また、大正二年、荘田玉吉、浦山吉次などが商店を開業したし、上武華橋付近には町田嘉平、片倉一郎、伊藤亀松等の定住者もあって部落は漸く定住の感があり、大正五年には松谷粂雄が商店を開業し、同年に高田政市が農具鍛冶を開業するなど次第に便利になっていた。(以上は松浦朝治翁の談話による)
大正二年四月二十八日小室琥珀女教師を迎え、相ノ内、相ノ内小学校西武華分教所として生徒は十九名をもって開校した。
第一期卒業生は、松浦幸吉である。 大正初期頃この上に荒山外次郎という怪力がいた。
彼は自由労務者として転々として稼働して歩いたが、偶然にも北見富士頂上に三角点の礎石(約二十貫)を背負いあげたが、その足の速いことは、到底連れの及ぶべきところがなかった。振り返って彼は「お前達は余りにも遅いから今一度降りてくる」と言ったという。また、荒地開墾中に馬が倒れたので、一頭五分のプラオのハンドルを妻に持たせて、彼が耕起したという。さらにまた、米俵の上に醤油一樽を背負い温根湯の運動会を見学したが、会が終わるまでそのままの姿で観ていたというし、また以前の鉄道開発当時には八十貫のレールの両端に米一俵を結び、担いで歩き、工夫連中を煙に巻いたという。怪力のエピソードは今にも残り、語り草となっている。彼もまた、当地区開発への秘めた功績があったと思われる。
塩別温泉は明治三十四年に温根湯の国沢喜右エ門が付属土地二戸分との告に払い下げを受け塩別温泉と命名した。語源は出願に当たって湯質検査の際に塩分が検出されたので、この塩の字を冠したが、後にいたって全くのアルカリ泉であることが判った。
明治三十二、三年ころ国沢はアイヌと取引きをしていたので、よくこの地へ原皮(クロテンなど)の引き取りにやってきた。そして湯の質が良いことと、将来この付近一帯が発展することを考えて入手する気になったという。大正元年に望月銀作を管理人として入地させて、土地の開墾と温泉の管理を一任した。望月は宿屋を経営しながら付近を開墾し、また造材もやった。湯は質が柔らかく小少温度が低いので長湯に適しておりかつ「吹き出もの」「火傷」「神経痛リューマチ」等の多くの病気に効くとあって湯治客が絶えず、また地元民にも利用されて繁盛した。そのためこの温泉を一名、望月温泉とも呼ばれた。大正九年に望月が去ってから岩瀬禎助が買って定住することになり、岩瀬温泉として永く親しまれた。
岩瀬は天塩、十勝などで開墾に従事し、まことに十勝では大成して相ノ内に逗留していたころにこの温泉を知り、そして買い入れた。 この価格が一万円とあって当時の話題となった。
 大正六年以前の幹線道路は十九号線までしかできていなかったから、この先は別紙図表のとおりで川向いへは丸太橋で通行していた。丸太橋は危険なもので、二十号で和崎の娘、三十八号では武市の娘が滑落して死亡した。丸木橋の悲話として今に伝えられています。
 大正三、四年ことから耕馬が飼われてきた。馬の知識に乏しい彼らはジャンコや癖馬を買わされ、次々と交換して馬喰ろうの餌になった。馬を使うことで耕作方法も一段と進歩し、あらゆる運搬も人の背から馬へと変わって楽になり、また農道などの改修も行われて便利さが向上し、それに伴い各家庭においても経済的ゆとりができてきた。
 大正三年三月二十日、社会に先がけて上武華森林防火組合が結成され、初代組合長に荘田玉吉が選任されたときの営林署の森林主事は高橋岩吉で留辺蘂に駐在していた。この年は春の到来が早く四月中頃にはほとんどの夏ものの蒔き付けは終わっていた。五月に入ってからも晴天続きで特に中旬ころは真夏のような暑さで万物が乾ききっていた。五月十五日に井間の畑で山火事があったが、早速に消火につとめて大事には至らなかった。そのため、十七日以降の火入れは禁じられていた。
 十九日の朝、山市熊市なる者が川向いへ三十号付近の造材事業所の者を尋ね、鞋銭(わらじせん)の無心に及んだが、すげなく断られた。これを遺恨に付近の草むらに火を放った。たちまちに火はみるみるとあたりに燃え広がり、更に南西の強風に煽られてたちまちに武華一帯は火の海と化した。火事と知って上の方の消火に駆け付けた男たちは止めるにも止められぬほど一面の火のため煙と熱風で我が身が危うくなり、当時はまだ、原野一帯はところどころしか開けておらず、そのうえ倒木や切り株もあったから逃げ場もないほどで人々はただ火災の中を右往左往と逃げ惑い、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の巷と化したのである。二十七号付近で天内米之助一家四名、となり須沢宅で一名が焼死、外に一名重症(翌日死亡)であった。また、外に負傷者多数をだした。 特に天内夫人が子供を抱いて焼死していたのは痛ましく、会する一同は地に伏して慟哭し、殉難(じゅんなん)の士として付近に葬ったが、後に共同墓地に遷し年忌ごとに大和四区部落民の追悼法要が営まれている。
焼死者の氏名は次のとおり 天内カン(六十七才)ハナ(三十三才)吉太郎(十六才)キヨ(十二才、翌二十七日死亡)吉郎(七才)須沢ニチ(四十六才)
また、この大火で天内以下六戸が全焼、現大和四区の半数を失った。 火付けした山市は放火犯人として温根湯で逮捕され投獄されたが、獄死したという。(死者氏名は大泉寺過去帳による)
 火は二十五号付近で止まったが、南北両方の高台は遠くオンネユまで延焼し、幾日も燃え続き、降雨によって鎮火した。内地府県の新聞にも報道され、内地から安否を気遣う便りもあった程で、入地開墾史上特筆すべき山火事であった。 焼けた畑はすぐに再播されてその年は好天に恵まれ秋は大豊作であった。この大火により一帯の開拓は急速に進んだ。

大和小学校の位置問題 部落を二分する紛争

翌大正四年上武華青年会が結成され和崎房吉が初代会長となり、荘田玉吉、原田修三、松浦幸吉、柴田勝、岩瀬照、山下正一、西永良雄らが会長に就任した。その間に会の組織も充実し、軍用ラッパを購入、荘田玉吉の指揮のもとに軍歌教練を実施し、志気大いに挙がった。また陸上競技も盛んに行われ、大正十年ころには留辺蘂地区大会に優勝し、柴田勝、土田彦太郎は百メートル、杉松幸吉は八百メートルに選手として北見大会に出場し、何れも優秀な成績を収めたが、佐藤、鴨原のラッパを先頭に野付牛駅より西小学校までの堂々の行進には沿道には人の垣をなし、歓声に沸きかえった。斯くして上武華青年会の名声は北見管内に鳴り響いた。
 入植者たちの懸命の努力によって二年から三年で一戸分(5町歩)を開き、三、四年目にはそれぞれ成耕し、検査に合格して附与を受け、自作農となったが、その速度の速いのには網走支庁の係官も舌を巻くほどであったと口を極めて絶賛したという。
 大正三年、部落の形成もよく出来上がったので、南虎幸が校下一円の部落長となり、次いで片倉一郎、渡辺忠太郎、松谷粂雄、末久兼八等が歴任し、昭和九年には滝の湯部落の分割により滝の湯部落区長には佐野準一郎が就任した。末久の部落長の後、高橋徳治、本田栄太郎、山梨友作、金山為市の各氏が就任したが、昭和十五年には字名改正により小区に分割された。
 大正七年ころより囲炉裏の焚火がストーブに変わり家屋の増改築等も行われて生活の程度も逐次上がった。大正四年秋ころより学校の昇格と学級を増やそうと考えられ、新校舎建築の機運が高まったが、当時の村財政は貧困であったから、自らの手に依って建築しなければならなかった。しかし、部落内では学校の位置を二十七号付近に求める側の勢いもかなり強かったから何度も話し合いを開いても埒が開かず翌年も流会に終止した。
そしてこの問題は部落を二分するほどの紛争の様相すら窺われた。
越えて大正六年夏、現在地に建設せんとする側は渡辺、荘田、松浦を中心に密に建設資金を集め、部落総会に諮り、一挙に多数決で可決した。この時は、部長は片倉一郎で部落民は薪ザッパを懐にしまい、総会に臨み及んだものだったが、幸いに暴力沙汰には至らなかった。後に中立派の人達の仲介により対立感情も和らぎ、実行に移された。
 総寄付金は七百五十円で木材の供給は望月銀作に一任した。かくて大正七年六月に新校舎が建設され、待望の独立小学校が誕生し、西武華尋常小学校と命名され、初代校長には関運次を迎えた。
大正六年に十九号より奥地へ通じる幹線道路が開通し(道路用敷地は地主の寄贈による)同時期に上武華橋も架設され対岸への通行が便利になった。六年秋に部落挙げて学校新築と道路開通の祝賀会を学校で盛大に挙行した。現在の滝の湯地区には大正五年に鈴木要作、三島某、舘山男司が、翌年の大正六年には原田修三、勝山利作等が、翌大正七年には山崎近郎、園部唯光、その後大正八年ころに黒滝由松、本條こしげ、菅田友八等が入植し、この地を開墾したがこの橋の架かる以前に入植した人達は大変に不便であったと思う。
 大正初期より丸玉農場の管理を朝倉郁郎がやっていたが、外に久しく同地域の造材をやっていた。
この地区へは大正六年に槙平治、佐藤権八等が入地、翌大正八年に朝倉が退いて新たに管理人として長瀬孫一が現在地に入地し、それぞれ開墾した。この頃に丸玉橋が竣工し、相次いで入植され、大正年間には全区域に五十数戸が入地開墾した。
 井田農場へは片倉一郎、佐藤源介、小林藤吉等が入地開墾したが一部を開いたのみで退いた。(入地の年代は不詳)峯村牧場は大正元年に和崎伝右エ門がその一部を買い、翌大正二年に小野寺音吉、甲谷米次郎等が和崎より買って入植し、大正四、五年ころ相ノ内の加納与作が二十五号線付近より以西八十余町歩を買い、同大正十年ころ管理人として藤田市三郎が入地した。同大正四、五年ころ相ノ内の鬼海某がこれより以東の約四十町歩を買い、その後大正六、七年ころ柳沼豊喜がこれを買って入地した。
同大正四、五年ころ和崎寿吉、宮本喜三郎が二十三号以東の現大和三区を買って入地し、その後大正中期ころ佐藤栄吉(以上は和崎農場)、鴨原行三、佐藤治助、松浦運之助、高田長之助、関本利秋等が入地(以上は宮本農場)し、それぞれ開墾した。
 大正四年に分村して武華村となり瀬島能登、荘田末吉、佐野純一郎が村会議員選任後、大正十年町制施行後、荘田末吉、佐野準一郎、松谷粂雄、金山瑞吉、岩瀬弥一等が相次いで選任された。
当時は第一次世界大戦の影響を受けて農産物は活気を呈し、就中(なかんずく)豌豆(えんどう)豆、手亡豆、ハッカは特にブームであった。農産物商人が横行し、雑穀相場の変動には興味はあったが、彼等にやられたものもあったと思う。
 大正八年に初めて官行(かんこう)斫伐(しゃくばつ)が塩別温泉の沢で行われた。荘田末吉、片倉一郎、望月銀作等が物品の供給人夫の提供、飯場の開設等について、これらの分野に進出せんとして道庁へ陳情に赴いた。時の道庁調査官は馬目常吉、東田徳治、山内某の三人であり、この地の塩別温泉に泊まって調査した。また、同年に志気連別沢で柳ケ瀬松次郎が造材を開始した。
柳ケ瀬造材はその後十七年間続けられ、沢の開発には貢献したばかりでなく農外収入の大きなものであった。材木を積んだ馬橇(ばそり)はこの街道を賑わし、夜中でも鈴の音が絶えなかった。
 翌大正九年留辺蘂から奥地へ森林軌道が敷設され、機関車による運材が始まった。
流送から馬橇積載送り、次には蒸気機関車による輸送と変わっていくのを見ても時代の変遷を思わせる。機関車は十輌以上の合車を引いて、一度に四、五百石もの木材を輸送した。
制動師が飛鳥のように台車から台車へ飛び移ってブレーキの調節をする練技は子供たちの憧れでもあった。
この林鉄は奥地の開発に大いに貢献したが、昭和三十五年に一級国道三十九号線の開通により撤去された。
 大正九年ころ志気連別地域の住民のうち非常に気の荒い連中がいて酒の後に必ず喧嘩になった。鍬や斧を振りあげる等のこともあり、温厚な尾崎栄次郎、渡辺信次郎等はこれを憂い、発起して現神社の境内に桂の標木を建て、鳥居も立て、産須那彦の大神を祀り、土地の守り神としてその後この境内を集会の場とした。神のご利益か?論争も消えて恒例の祭典には草角力(すもう)が奉納され、遠くから力士も参集し、盛大を極めて滝ノ湯神社の角力は当時の呼び物となっていた。
 大正六、七年ころ志気連別沢入口付近に松浦義太郎が入地し、家族に土地の開墾をさせて自分は金山をあさって歩き、隅々、十八号(現在王子製紙の社有林)山間では金鉱石を発見し、金山松浦と一躍有名になった。この金山はかなり有望のものとして遠く鉱山師の買い手もついたが、十万円でなければ手放さぬ強気であり、自分は金山王を夢見て贅沢三昧にふけった。最初は金山にあやかりたいと貢ぐ人もあったが次々と人も離れ、ついには家族もあきれて四散し、九年ころは孤独となり、失神同然となって昭和初期頃何処ともなく立ち去った。
 大正九年三月、滝ノ湯二十九号に巡査派出所が設置され、高橋巡査が駐留した。高橋は翌大正十年、移民三十名を引き連れ樺太に渡り、本斗の開拓に当たった。この中には朝倉工場の従業員の数戸も入っている。彌後(やご?)、津野、茂手木、田口、千葉、鈴木、浦川、上野、中村、浜崎の名氏が駐在し、上武華以西の富士見までの治安維持の任に当たった。大正十一年に尼港(にこう)事件が勃発、同年六月松浦幸吉が現役兵としてサガレン州に派遣され、この事件の鎮圧の任に当たった。
 大正十一年八月に洪水が発生した。この時は盆の十七日ころより降り始め二十一日ころより豪雨となり二十四日の夜半より二十五日未明にかけて武華川の氾濫がはじまった。
濁流漠々として流域一帯を呑みこみ暴れ狂った。警鐘が乱打され部落民は流域や橋畔に集まった。
そして必死の防御がなされたが水勢益々勢いを増して、特に二十七号付近は凄惨を極めた。
二十七号の沢瀬翁は逃げ場を失い、高所の大木の切り株に猫を抱いて避難したが、その後水中に押し流され、対岸の民家があれよあれよと見守る中に、ロープを投げて救助しようとしたが翁は手を振ってこれを拒み、どんどん下流に流れていき流木に激突して水中に没した。日の暮れが差しせまるころ稲田静一が朝倉木工場下の木づまりに翁がいるのを発見し、同志とともに中州へ泳ぎ着き、翁にロープを結んで、対岸の人達とともにこれを救出した。後に稲田外一名は人名救助の廉をもって表彰された。(道長官の表彰)洪水の事実として今に語り伝えられている。この氾濫によって流出した家屋は沢瀬、町田、遠藤等の五戸。橋梁は全て流失、流失耕地は約三十町歩、完全に浸水したもの約七十町歩で、大正三年の大火に次ぐ大惨事であった。この後、護岸の必要性が叫ばれ、当時の部落長 渡辺忠太郎は時の町長 国上国太郎を動かし、二十八号武華川東岸の林鉄より三百メートル下流へ、また、二十七号より二十六号の間、約六百メートルの間に堤防を築き、また、要所に蛇篭(じゃかご)をいれてその後の水害に備えた。時は大正十二年の秋で武華川流域での最初の護岸工事であり、国上町政の大きな足跡である。
 同大正十二年十二月に全町一の長さを誇る、延長二百メートルに及ぶ上武華橋の架け替えが完成し、深雪をついて盛大な渡橋式が催された。水渦に泣かされた部落民も新装となった橋畔に立ち、或いは対岸の築堤に佇んでその復旧を歓んだ。
 この頃、青年会の演芸会は中々に人気があり、娯楽の乏しい部落の憩いのひとときであった。
大抵は神社大祭の前夜祭に余興として催されたが、学校の校庭に舞台桟敷を造り、ランプなどをつけてやったもので劇ものが多かった。青年会の山重貫三の演出で佐藤章信、岩瀬照、園部実、中島義禎、山下正一、西永良雄の外大勢が出演したもので、部落民は総出でかけつけ、外には近郷近在からも観衆が殺到し、深夜に至るまで熱演された。中には焼酎の余勢をかっての声援や罵声も混じり興味深々たるものがあった。この催しは後々までも大和部落の伝統として続けられ現在に至っている。

活発な青年団の活動 自力更生運動に起き上がる

 大正十五年留辺蘂土功組合が結成され、翌年の昭和二年より三年の間に灌漑溝が完成した。
時の組合長は高橋惣吉町長で、理事は梨田全吾、森重要吉であったが、特に梨田の寝食を忘れての努力はこれが完成への礎石となったもので、後世にこの功績は讃えられている。この大和地域からは松浦朝治、本田栄太郎等が役員として活躍した。同昭和三年六月、この落成祝賀会は本校で催され、北海道庁、支庁の係官を始め朝野の名士、および関係者多数が出席して盛大なものであった。この盛儀(華やかで盛大な儀式)に感激して工事の請負者前川日義は鯨引幕一張りを上武華青年会に寄贈したが、見る人をして当時を回顧させる。
 そしてこの昭和三年に造田が行われた。平地のハッカ畑は田となり、これまで荒地となっていた湿潤の土地も美田となり、且つ残り少なくなっていた木の株も全く見当たらなくなり、人々は米俵の山を夢見たのでした。そして翌昭和四年から水稲耕作が始まり、この秋に初めて石油エンジンの機械が四台入った。
 大正十一年に上武華神社の社殿が建設された。その後、柴田運エ門が永く氏子代表(神社総代)として神社の守護にあたった。
大正の末期ころ三十一号付近で園部唯光が澱粉工場を経営した。これが大和校下で初めての澱粉工場であり、焼玉エンジンを使っていた。
 大正末期から昭和の初期にかけての学校の運動会は中々に奇抜なものであった。実施の合図には神社の太鼓が借り出されたり、馬の鈴も用いられたが、大正時代には猟銃が使われた。町田嘉平、野村本五郎のハンターが上空に向かって空砲をブッ放したのだから、下級生徒などは度肝を抜かれたものであった。
 昭和三年に大和四区の南側高台地帯に四国より小川、野並、中平、松岡、谷、安原、田村等の七戸が集団入植したが、表土が浅く、土地の生産が低かったので四、五年で立ち去って行った。
 昭和四年に上武華森林防火組合の事務所が二十五号に建設された。時の組合長は佐野準一郎であった。消火器具が収容され、森林防火組合活動の詰め所であったが、部落の集会や青年の遊び場、就中(なかんずく 特に)剣道の道場として活用された。 後に大和季節託児所に利用され、また女子青年の洋和裁の学舎ともなった。 戦後(昭和二十年以降に)大和二区に売り渡し、現在に至っている。
青年の剣道は松谷粂雄が指導した。中には有段者も出て志風刷新(井伊の赤備えなどの意味)に貢献した。
 昭和六年 本田吉次の土地に武田昭一が製米所を開業し、昭和十一年に本田貞治がそのあとを継ぎ、動力にガスエンジンを使用した。木炭の需給が困難となってきたので、昭和十六年に自費千六百円を投じてオンネユより電気の動力線を引いた。
 大正十一年秋、松浦朝治は留辺蘂より七ケ月の牝牛を購入し、大正十三年より搾乳をはじめて自家の飲用に供した。後に大正十三年に小野寺、藤田等が乳牛を導入した。これが大和の酪農のはじまりである。
 昭和五年九月に飛行機が温根湯に来るとのことで、部落挙げて見学に赴いたが、都合が悪くなり飛来しなくなった。不満をもらしながらみな帰宅したが、翌日の晴天の碧空に突如飛来し、初めて見る飛行機に奇異の眼を輝かせ、歓喜に沸いた。北見富士上空を廻り、引き返したが温根湯の出穂の畑に降りようとして誤って稲架に引っかかってしまい墜落大破してしまった。
飛行機が温根湯に降りたとみて大木校長は松田、堂坂の両教師は生徒を引率させて見に行ったものです。先を競いながら行ったものですが、今にして思えば全くもって笑止千万でありました。(機名は北凰号)
 昭和五年に梨田全吾の努力により温根湯より二十七号までの間、武華川左岸地区(北西側)に道路が開通し、左岸道路と呼称した。入植、開墾以来久しく悪路に悩まされてきた関係住民は大いにその便益に浴することができた。
 昭和六年に満州事変が勃発し、関本浩は第二師団に属し、北大宮の戦闘を緒に各地に転戦し、赫々(かっかく)たる(輝かしい)武勲を建てて翌七年に故国に凱旋した。ほかに槙末蔵、金山年行、尾崎安信等も同様に参加しており、無事に帰還された。
 昭和六年に佐野、荘田等の奔走によって、温根湯市街より二十九号までの間に電灯線が架設された。
二十ワットの電球が目に痛く感じられたようです。また、ラジオも入ってきました。
 以上のごとく当地域の開発は進み、日を追って発展していったが、六、七年は未曾有の凶作であった。造田に多額の費用をかけて加えて水田耕作用の農具の購入費や水路工事などの償還金の負担も重なって大変な苦境となった。 だから土地を担保に国策銀行である拓殖銀行から更生資金を借りたものがほとんどであった。日々の食事にも困窮し、欠食児童もでており、これ等の児童に学校で給食が行われた。教農工事(更生事業)が行われたが、賃金が安く、人夫は一日で四、五十銭で軍手三、四双分くらいにしかならなかった。更生するには蚊の涙ほどのものにすぎなかった。(この地に入植以来では最も貧乏な時であったように思われる) 網走支庁では自力更生を提唱していた。そしてこの冷害克服は全くの自力による更生に踏み切ったのである。 各種講習会が開催された。対策の一環として乳牛も導入された。堆肥の増産運動が行われ、推進された。 朝早くから起きて草を刈って積んだ。木村専治等は三万貫も堆んで留辺蘂町一位になった。 一貫は3.75kg → 3万貫は112500kg(11トン以上)
農事視察もやった。支庁では青年の奮起を呼び掛け、一人ひとりの研究が始められ、一段と進んだ試作をするために田畑を耕作した。その他にも適宜に研究課題を懸げて(ぶらさげ)研究もした。
早起き奨励のために早朝三時に板木が叩かれた。暁の黎明(れいめい)をついて一斉に板木が鳴り響いた。付近一帯が起きるまで叩いた。大強者(つわもの)もいたが、中には板木を叩いてから帰ってまた寝たという、あまり自慢にならないのもいた。
この自力更生運動は部落を挙げて行われた。翌年の昭和九、そして十年もまた大凶作であったから農村は疲弊し切った。 ちなみに当時の青年団の幹部は金山長一、稲田正雄、末久順一、箭原清吉、山梨寿雄、尾崎安信等であった。 昭和八年六月上武華郵便局が開設され、荘田玉吉が初代局長となり、翌、昭和九年は大木広規がその後を継ぎ、現在にいたっている。(昭和五十年からみて)
 昭和九年に現在の川上三区へ高橋金次郎ほか二十二集団が移住し、しばらくして川北一円は広大なものとなった。
 また、昭和九年に旧丸玉農場旋風が巻き起こった。それは農業主が土地売り払いを宣言したことに始まる。この売り払いには土地ブローカー某が介在し、さらに政治家までがその黒幕であったから、小作民達は耕作組合を結成し、佐藤権八を会長に伊藤伝を副会長にして農地解放運動を展開したが、組合員総決起の猛運動にも拘わらず翌年も埒(らち)があかず、しばらくして翌々年の昭和十一年三月に尾崎天凬(議員)等の努力によって民有未開墾地として開放となった。
後日に自作農維持資金(借入)償還組合を結成し、遂年(ついに)これの償還をなし、昭和二十五年に繰上げ償還をした。(組合長 伊藤 伝)当時の団結の気風が今に残っている。
 昭和九年三月十日、時の陸軍記念日をト(ぼく えらぶ うらなう)として三十周年記念式典を催した。日露戦争に参加した老兵達が多数集まって、当時の実戦談に花を咲かせた。

大和・厚和・滝ノ湯 

 大正十五年七月一日、西武華青年訓練所が開設された。初代の指導員に浦山松島就任し、以後 浦山松元、熊谷源太郎、前田富雄、藤田五平、西永良雄、石井喜義、町田一、柴田精弥、樋口政雄、佐藤吉雄、岩瀬豊長谷川義幸、片倉勇作らが就任し、青年の軍事教練の指導に当たった。この訓練所は後に、青年学校に変わり、終戦によって閉校となったが、開所以来、次々と優良壮丁(そうてい 成年の男子)を軍隊に送ったが中でも、松谷大尉、柴田誠毅准尉等も輩出しており訓練の成果は大いに挙がった。
特筆すべきは昭和八年の訓練用の兵器の購入である。この年は久しぶりの豊作であったので、この懐を当て込んで、松浦幸吉後援会長を先頭に幹部の並々ならぬ苦労によって一二〇〇円の寄付金を集め、これで一人あたり十六円の装備をした。(小銃、帯剣、飯盒、水筒、背嚢(はいのう)等一式)ほかに指揮刀、図嚢、その他もできたが、当時の装備は管内一を誇った。
昭和九年に優良校として網走支庁長の表彰を受けて大いにその面目を施した。また、後援会も同様に表彰を受けた。まさに強者どもの夢の跡である。
青年学校になってから女子部もできた。小杉、千葉、中川の各校長の功績も大いなるものがあり、土田、山重等の歴代後援会長の努力や会員諸氏の協力もまた絶大なものがあった。
志気連別温泉は昭和九年に福田精蔵公が入札により国より買収した後、三十六年に林野庁北見営林局がこれを買い取り、機械訓練所、保養所を開所した。昭和九年に滝ノ湯青年団上武華より分割し、稲田政雄が団長となり後に笹原、稲田等が就任した。終戦の後、大和連合青年団の結成により解散した。
当時の上武華青年団は団長は金山長一で、その後 山梨寿雄、槙喜一、本田義男等が就任した。昭和十年に優良青年団として網走支庁の表彰を受けた。また、十三年三月に道庁の幸前社会教育課長を迎えて学校にて研修会が催され、芸術品等も陳列して盛大に挙行された。当時の団長は山梨寿雄であり、校長は千葉七郎であり現網走女子高校の校長であった。当時はまた滝ノ湯青年団は少数ながら団結よく、上武華青年団と協力してよく活動した。
道路には指導標を建てたり、部落案内図もつくり学校の遊園地も造った。昭和十年に大和二十四号に農協の種牛管理所が設置され、金原金松が管理者となり、後に二十一年に遠藤清武が管理人となる。
昭和十一年に高等科が併置されたのであるが、これの可否をめぐってオンネユ側の反対に遭い、佐野、松浦等が協力に推し進めて併置認可となった。
昭和九年、滝ノ湯部落分割により佐野準一郎が初代区長に就任し、同年 滝ノ湯神社が改修され、志滝神社と命名した。上武華部落からも寄付を贈ってこの建築を祝した。
昭和十二年六月に天皇陛下の行幸を記念して上武華青年団の手によって大和の学校の門柱を建設した。大工には下込則松が、左官には堀慶一があたった。運動会にはこれを披露し、部落民はその厚意を喜んだ。
 昭和十二年に日華事変が勃発し、平和な部落にもざわめきが起こった。同年の七月に松浦幸吉、末久順一、遠藤文八郎、岡崎孝平氏等に招集令状が届いた。この年の内に槙栄治、本田吉太郎等も応召となり、以後は数十人の兵士が召されて行った。当時の区長は上武華は本田栄太郎、滝ノ湯は佐野準一郎であった。戦争は長期におよび且つ熾烈を極め、女子まで軍事教練が施され、防空演習が行われ灯火管理が敷かれた。
働き手の主力を失った農村は学校の生徒が援農に赴いた。松の葉を蒸し返して油を採り、軍隊に送った。男も女も勝ち抜くまでは、と頑張ったが戦いは遂に利非ずに敗戦となった。召された兵士達は続々と故国へ帰ってきたが、戦いの勝利を信じつつ戦死した者は白木の箱で遺族と対面した。幾柱もの英霊に対し、謹んで哀悼の意を表する次第であります。
 昭和十四年七月に滝ノ湯神社の境内に殉馬の碑を建立した。以後七月十七日は馬頭祭を挙行し、盛大な式典が催され、且つそれに学校の生徒会も参加して、学生相撲(角力)が行われている。境内には春ともなれば桜花爛漫さながらに、また校下を一望にしての遊園地でもあった。
戦死者の氏名は次のとおり、佐野一郎、横尾大三、高田辰江、真壁真一、柴田亀吉、山田久一、俵谷直義、俵谷環、俵谷茂、山梨増三郎、長谷川正幸、馬場好巳、中岡正一、高橋晃、町田二、松浦広、槙留雄、渡辺長兵エ、鈴木義雄、渡辺幸雄、館山正市、武市克己、藤田武夫、佐々木武平、箭原清吉、藤江俊夫氏等である。また、岩瀬勇氏は南支珠江作戦の武勲により、功七級金鶏勲章を授与された。
 昭和十四年の満蒙開拓の叫びに呼応して岩瀬栄、山下正一、箭原清吉、金山長一、松浦初治、松浦兼治らが満州開拓に赴いた。また、軍需産業の拡大により槙喜一は室蘭へ、西永良雄、武田繁治、武田武男、土田増次、槙末蔵、野尻新吉氏等は砂川硫安工場へと転出した。
昭和十四年に伊頓武華(イトムカ)に野村鉱業株式会社が水銀鉱の採掘を始めた。
昭和十五年に大和二十五号の川原に馬検所を建設した。同年に字名改正により、大和、川北、滝ノ湯の各区に分割され、さらに小区に分割した。
昭和十六年の六月に野村鉱業のトラックが上武華橋通過の際に橋げたが折れて河中に転落し、多数の死傷者を出した。凄惨な状況は眼を覆い、付近住民が駆けつけてこれを救護した。同十六年十月に本田精米所付近より二十九号までの間の道路が開通し、対岸への交通は便利となった。同年に大和小学校の校舎の建築が完成した。また、十八年には志気連別へ官行軌動の引き込み線が開通し、志気連別沢の運材を始める。戦争苛烈(かれつ)の中にあって、部落挙げて銃後の守りに挺身した。統制経済の中に至って耐乏生活は続けられた。「欲しがりません勝つまでは」の標語もあったし、隣組の歌等が唄われて、せめてもの慰めであった。暫くして昭和二十年八月十五日、ついに終戦の大詔はくだされた。
敗戦は信じたくもなかったが、事実は厳粛なものであった。呆然自失と仕事も手につかぬほどの衝動にかられ、海外に赴任していた兵士や親戚の安否が気遣われた。
 米軍の駐留が開始され、この田舎までもマッカーサーの重圧が感じられた。不安な毎日が続いたが、それでも毎日果てるとも知れない泥沼のような戦争から解放された安堵感もあった。

終戦後の生活

 昭和二十年、敗戦のこの年は農業においても未曾有の凶作でありました。夏に汗する日は一日もなかった。農家ですら飯の米にこと欠くほどのありさまで、一般の食糧事情は極めて悪く、且つ衣料についても寒さを凌ぐ程度のもので、晴れ着や流行の着物など考えも及ばなかった。
 二、三年の間に出征した軍人や在外同朋は続々と故郷へと帰ってきた。世の中は変わったが、北見富士の英姿も武華川の清冽(せいれつ)な流れも依然と変わることなく「国敗れて山河あり」「ふるさとの山はありがたきかな」と詠んだ言葉は全くもって実感そのものであった。
 敗戦につきものの、闇が横行し、例えば柾釘四瓩(まさくぎよんきろぐらむ)と米一俵、ゴム長靴一足と麦一俵、番傘一本と麦半俵と例えられて物々交換されたのでした。昭和二十年九月ころ一頭壱千円ほどの馬が翌年の二十一年春には壱万五千円以上にもなり、物価のインフレのものすごいことは筆舌に尽くしがたいものがあった。お札は拾円紙幣が最高であったから、大きな買い物にはリュックサックに入れて背負って歩いたのでした。
 農業は食糧の増産に重点が置かれて、出荷割り当てをもらってのものでしたが、この消化が大変であったが割り当て以上に出荷した者には超過供出と称して多くの奨励物資が支給されたのでした。
 また、食糧、衣料、家財道具、日用品等についても闇商売が横行し、闇屋と称する職業もあって、皆は一日もはやく経済の安定することを願ったのでした。
 電灯も節電されてローソク送電といってローソクの明るさ以下の節電もあったが、二十四、五年ころには大分緩和されていき徐々に生活はし易くなっていった。
 二十一年秋には本田義男が部落の中央部に澱粉工場を新設し、また二十四年には本條覚太郎が厚和一区に澱粉工場を開設し、澱粉用の馬鈴薯の作付が急激に増えました。

六三制の義務教育 施工される

 昭和二十二年四月より小学は六年、中学は三年が義務教育となったが、生活苦の中にあっては中学の三年がさらに義務化されたことに対する批判はあった。昭和三十年ころまで長期欠席が続き、PTAの悩みのひとつでもあった。「六三制は野球ばかりが強くなり」という川柳もできた程で、学制の改革と同時に野球やバレーボール等の団体スポーツが盛んになった。当の大和校においても中学校第十回から十五回生時代が最も盛んで、北見方面大会等で度々優勝した。また、全町の相撲(角力)大会が開催され、これまた、十五から二十期生あたりが大変に活躍し、度々に優勝し、「大和はスポーツばかりやっているのではないか?」などと管内の校長会での話題になった程であった。新学制は敷かれても、校舎は建ててくれないので地元で資金を作って建てなければならないわけで、部落で種々に考え、協議の末に神社横の公用地に温水溜池をつくる工事を留辺蘂町土地改良区より請け負い、十二月の一ケ月間を部落総出して馬橇(ばそり)で出役し、更に人夫は「もっこ担ぎ」をやって、これをもとでに翌年の二十四年九月に中学校の新校舎を新築建設した。
時の校長は佐々木謙次朗校長であった。

大和連合青年団の結成とその活躍

 戦争の苛烈の度を重ねるにおよび、若者達が出征して少なくなり、終戦当時は青年団も有名無実であった。昭和二十年の末に時の校長、井上と宇佐美先生の発想により大和校下一円の男女合わせた連合青年団が二十一年春に大和連合青年団として発足し、団長には本田豊信、副団長に小野寺勅、馬場政子、幹部に伊藤一男や金山学、中岡丑雄、山重多喜子等が就任し、久しく途絶えていた若者達の溌刺たる息吹きが始まった。
団員は二百余名で、先ず春の運動会が盛大に行われ、翌年夏には櫓を組んでの盆踊り、秋の祭りには演芸会が復活し、沈滞ムードの部落に活気を与えることとなった。
 後に町内において青年団が復活し、留辺蘂町青年団聯絡協議会が発足し、相互の交流や研修が盛んに行われることとなった。更に四Hクラブ等のグループ活動や生活改善運動、特に農作業の休日の設定を考える等に意欲的に活動した。
また、昭和四十四年十月から一ケ年半に亘り本田信幸が西ドイツに派遣されて農業の研修として欧州に留学した。このように何時の時代でも若者には夢がある。新しいものに向かって勇敢に立ち向かっていくものである。これら青年の活躍も過疎化に伴い団員の減少により、さしも盛大であった演芸会も四十二、三年ころで中止されることとなり、四十五、六年以降は後継者対策に腐心するようになった。世の中の変遷とはいえ、洵に皮肉とも受け取れてしまえるような遺憾に堪えない次第であります。

酪農の振興とその推移

 主食の米作が優先という中にあって、酪農は細々ながら九戸によって支えられてきた。搾った牛乳の売り先に困ってイトムカ鉱山にも森林軌道に載せて届けたり、または留辺蘂まで馬車で運び、汽車で北見市まで送ったりしたが、品いたみがでてその品質保持に大変であった。
 これ等の対策として二十年秋に大和酪農振興会を結成し、松浦朝治を会長として金山為市、山梨寿雄等が幹部となって集乳所の建設を企図し、国有林より木材の払い下げを受けて、会員九戸の労力によって十八坪の集乳舎と十五坪の住宅を建設し、雪印乳業北見工場の須藤工場長と交渉し、石渡四朗集乳所主任の派遣によって漸く(ようやく)集乳の基礎を確立することができた。
また、昭和二十三年酪農青年研究会を結成し、山梨寿雄を会長に本田豊信、長谷川義幸等が幹部となり、新しい酪農郷の建設に取り組んだ。越えて二十四年に雪印乳業の後援により鈴木重行先生の酪農講習会が催され、更に詳細に現地指導がなされたことで、これを契機として酪農意欲が急速に高まり、翌二十五年から雪印乳業の酪農集中指導指定部落として指定を受けることとなり、高橋勲講師の指導を受けることとなった。
 かくして他の地域に比べて恵まれた環境の下に酪農が振興されてきたが、その後に上岡、三国、伊藤、大石等の歴代の集乳所主任の酪農振興に寄せる功績は大きく、特に三国主任は積極的実行力をもってサイロや諸施設の建設から乳牛の分娩や衛生管理や飼料の収穫、乳牛の導入に至るまで労苦を厭わず指導援助したので広く農民から感謝された。
 二十八年にやっと百頭達成記念祝賀会が開催され、三十五年一月には三百頭達成記念祝賀会を開催してその酪農振興を祝福した。
 その後、厚和地区を加えて六十数戸の会員を擁するに至ったが、厚和地区は森永乳業に出荷を変更することとなる。四十九年七月に紋別の農協系統乳業会社の創業によって、全般的に配乳替えがなされることとなり、大和集乳所地域は森永佐呂間工場への配乳計画案が提示されるにおよび、受託機関であるホクレンと再三の話し合いの結果、曽て(かつ)雪印乳業北見工場とは密接な交友関係にあり、その絆は容易に断ち切りがたいものがあったが、牛乳の共販体制の原点に立ち帰り、時代の推移に即応し、小異を捨てて大同につくとの見地から満場一致で森永佐呂間工場に出荷することに決定した。
 かくして森永工場からは加藤洋が集乳所主任として着任し、懸命に集乳事業にあたり、特に酪農青年研究会の中核となり、積極的に指導した。「時代は静止して止まるところを知らず」とか、あらゆるところから
五十一年度からの乳質の細菌規制の改正に備えて、また将来の牛乳取り扱いの省力化を図るためのバルククーラーの設置が意図されており、先進地の視察やそれぞれの研究討議がなされ、何度も会合が持たれて、五十年八月よりバルククーラーの施設に切り替えられることに決定し、永年に亘り続いた大和集乳所も慈(いつくし)しまれながらも閉鎖されることとなった。
 また、配乳農業振興会はかつて農協菅下一本化節が出ていたが、昭和三十五年に温根湯酪農振興協議会として各単会の連合的組織ができたが、集乳の一本化によって実質的に温根湯酪農振興会として活動することとなった。
 昭和四十三年に留辺蘂町の農業構造改善事業が温根湯農協管下に行われることとなり、当大和地域においては大和四区の九戸がその集団として発足し、大規模農機の導入、草地の造成、畜舎設備等の新設などが行われ、さらに南側高台地区に民有国有を含めて六十余町歩にわたり、農業構造改善事業の地区越え事業として広大な牧野を造成し、町営大和牧場として発足し、川北方面の黒毛和種肉牛と共に夏季から秋にかけて二百数十頭が放牧され、畜産振興に寄与すること大であります。
この牧場施設については末久順一が自らの土地の解放を申し出し、他の土地所有者を説得して岩瀬農協組合長を中心に本田豊信がその仲介となり、更に開拓放棄地を含めて団地の獲得に成功し、順調に造成されたものであります。

農業の発展とその推移

 戦後の食糧事情の好転に伴い穀類専門の農業から、徳用作物の作付けが取り入れられるようになり、駆虫剤の原料となる「ミブヨモギ」の耕作が始まった。特に川北方面で多く栽培され、また往年の薄荷耕作も復元され、各地に蒸留施設ができ、在来種の「北見赤丸」に変わって「五十鈴」「万葉」等の多収穫品種が出現し、耕作方法も改善されて往年の北見薄荷の再現を思わせたのだが、輸入ハッカや化学製品に押されて、町内にわずかに止まるにすぎなくなった。また稲作に於いても温室育苗による移植方法が取り入れられるにおよび、冷害対策、多量収穫等の利点があることで、全面的に直播から移植する方法に変わっていった。
またビートに於いても紙ポットによる温室育苗が普及されてきて、栽培の省力化と多収量につながるとして大半が移植の方法に切り換えられた。
また、三十五、六年ころより滝の湯二区で斎藤健次郎が白菜、レタスの栽培を始めた。彼は秋田県の出身で農業高校園芸科に学び、その科学的栽培法によって着々と業績を上げ、その後、岩瀬宏之、本篠喜代一、稲田拓郎、武藤信一等が耕作することに及び、その耕作方法は全般的に普及した。
 稲作は米の生産調整の一環として全面畑作転換の制度が温根湯から以西で行われ、昭和四年以来、四十数年亘り耕作し続けてきた稲作に終止符が打たれることとなり、これに代わるものとして野菜が大幅に取り入れられることとなり、特に玉ねぎの耕作が急速に増え、外にもニンジンや大根、南瓜等の多種多様の野菜が栽培され、蔬菜は当地方の基幹作物となりました。
 農協では四十七年に稲作転換特別事業として十四号に大型倉庫二棟を建設し蔬菜倉庫として出荷に備えた。三十三年に大和四区の高橋正雄がホイールトラクターを導入し、それ以来は次第にトラクターや大型作業機械が導入されることとなり、農業の規模も急速に拡大されたことは異常な進歩と発展と言わなければならないと思うが、その反面で離農者が続出し、農家戸数は減り続け、半減した。
とりわけ川北地区、大和三区、滝の湯一区、厚和地区の減りようは目覚ましく、富士見地区は全戸が離農した。これらの離農跡地は残置者の規模拡大につながっていくわけであるが、奥地や条件の悪い土地は植樹されて山林となり、過疎化されたことはまことに残念なことであった。

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