大和開墾の歴史
大和地域 入植 開墾の歴史
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1869年
明治2年
浦山林蔵氏、22号線に最初に入植
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明治5年
根室支庁管轄となる 常呂郡モイコイツネ村 他7ケ村
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1875年
明治8年
生顔常(モイコイツネ) 漢字化される(本字改正)
常呂町 端野町(野付牛 生顔常) 置戸村(訓子府村、相内村、武華村と独立となった) -
明治12年
網走 外三郡役所
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1891年
明治24年
ムカ殖民地区画 三原野が測設される 野付牛、クンネップ、ムカ原野
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1897年
明治30年
野付牛村に屯田歩兵 第四大隊一、二中隊が入殖する(野付牛、相内)
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明治32,3年ころ
福島県人 田辺清松ほか6名が武華原野 22号線以西の29号線まで75万坪を道より賃下げ受けて
集団移住したが、7月末の高山の雪をみて農耕に不適とみて帰郷する。
その後、胆振の国留寿都出身の道会議員 加納富貴松氏が権利を買い移住者を集いアイヌも交えて
入殖させたが、2戸だけ残り、去っていった。
留寿都の瀬島能登が加納から壱千五百円で買い受けし、瀬島医院の手伝いをしていた同県人の美濃
誠策を開墾の管理者として入殖させることとした。 -
明治40年
浦山林蔵が22号沿いに入殖した。
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明治41年
美濃は同志二人と名寄から興部、遠軽、佐呂間、留辺蘂を経て武華原野に入った。
十数戸ある筈の開拓農家が2戸だけであった。(及川某とアイヌの丹野勝吉の二戸) -
1909年
明治42年
生顔常村は野付牛村に編入される
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明治43年3月
瀬島能登一族が入地 22号線
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明治44年秋
陸別と網走間に鉄道が開通した。
この年、柴田運左エ門、柴田亀彌、本田吉次、本田栄太郎、藤田万蔵、石田正一郎
大石春吉、金井春左エ門、熊谷三郎などが入地した。 -
冬
本田栄太郎翁の話より
小樽の三井物産に一戸分の木を二十五円で売った。しかし、全部を伐ったわけではなく三尺上で松しか伐らなかったが、三千石以上出したとの話。 -
大正 2年4月28日
学校ができる。
小室琥珀女教師を迎え相ノ内小学校西武華分教所として19名をもって開校した。
朝倉郁郎が27号川沿いに定住し、丸玉牧場の造材を始める。中牟田、峯村牧場も造材を開始した。25号旧柳沼豊喜の宅地あたりに三井物産の造材事業所ができ、川岸茂作が山頭をしていた。また、23号の金山正義宅あたりに同会社の事業所があって杉本某が山頭をしていた。木材は武華川から流送し留辺蘂に運んだ。 -
大正 2年4月28日
学校ができる。
小室琥珀女教師を迎え相ノ内小学校西武華分教所として19名をもって開校した。
朝倉郁郎が27号川沿いに定住し、丸玉牧場の造材を始める。中牟田、峯村牧場も造材を開始した。25号旧柳沼豊喜の宅地あたりに三井物産の造材事業所ができ、川岸茂作が山頭をしていた。また、23号の金山正義宅あたりに同会社の事業所があって杉本某が山頭をしていた。木材は武華川から流送し留辺蘂に運んだ。 -
1914年
大正 3年
丸山、瑞穂、花園が武華村に編入される
5月19日 大火の発生 30号あたりから放火される。大和四区 6戸全焼 2名焼死
放火犯 山市は投獄され獄死したという。火は数日続き、温根湯近くまで延焼した。 -
大正 4年
野付牛から分村し、武華村となる
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大正 9年
留辺蘂は2452戸 人口 11,595人となる
森林軌道が敷設される。木材が流送から蒸気機関車による輸送へと変わった。
29号に駅逓が開設される。佐野準一郎が取扱人として赴任した。 -
大正11年8月
大水害が発生
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大正12年6月
大和神社が造られる。
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昭和22年
公選第一号町長として佐野準一郎が就任し、以来三期十二年間要職を担当する。