活発な青年団の活動    自力更生運動に起き上がる

 大正十五年留辺蘂土功組合が結成され、翌年の昭和二年より三年の間に灌漑溝が完成した。
時の組合長は高橋惣吉町長で、理事は梨田全吾、森重要吉であったが、特に梨田の寝食を忘れての努力は
これが完成への礎石となったもので、後世にこの功績は讃えられている。この大和地域からは松浦朝治、
本田栄太郎等が役員として活躍した。同昭和三年六月、この落成祝賀会は本校で催され、北海道庁、支庁
の係官を始め朝野の名士、および関係者多数が出席して盛大なものであった。この盛儀(華やかで盛大な
儀式)に感激して工事の請負者前川日義は鯨引幕一張りを上武華青年会に寄贈したが、見る人をして当時
を回顧させる。
 そしてこの昭和三年に造田が行われた。平地のハッカ畑は田となり、これまで荒地となっていた湿潤の
土地も美田となり、且つ残り少なくなっていた木の株も全く見当たらなくなり、人々は米俵の山を夢見た
のでした。そして翌昭和四年から水稲耕作が始まり、この秋に初めて石油エンジンの機械が四台入った。
 大正十一年に上武華神社の社殿が建設された。その後、柴田運エ門が永く氏子代表(神社総代)として
神社の守護にあたった。
大正の末期ころ三十一号付近で園部唯光が澱粉工場を経営した。これが大和校下で初めての澱粉工場であ
り、焼玉エンジンを使っていた。
 大正末期から昭和の初期にかけての学校の運動会は中々に奇抜なものであった。実施の合図には神社の
太鼓が借り出されたり、馬の鈴も用いられたが、大正時代には猟銃が使われた。町田嘉平、野村本五郎の
ハンターが上空に向かって空砲をブッ放したのだから、下級生徒などは度肝を抜かれたものであった。
 昭和三年に大和四区の南側高台地帯に四国より小川、野並、中平、松岡、谷、安原、田村等の七戸が集
団入植したが、表土が浅く、土地の生産が低かったので四、五年で立ち去って行った。
 昭和四年に上武華森林防火組合の事務所が二十五号に建設された。時の組合長は佐野準一郎であった。
消火器具が収容され、森林防火組合活動の詰め所であったが、部落の集会や青年の遊び場、就中(なかん
ずく 特に)剣道の道場として活用された。 後に大和季節託児所に利用され、また女子青年の洋和裁の
学舎ともなった。 戦後(昭和二十年以降に)大和二区に売り渡し、現在に至っている。
青年の剣道は松谷粂雄が指導した。中には有段者も出て志風刷新(井伊の赤備えなどの意味)に貢献した。
 昭和六年 本田吉次の土地に武田昭一が製米所を開業し、昭和十一年に本田貞治がそのあとを継ぎ、動
力にガスエンジンを使用した。木炭の需給が困難となってきたので、昭和十六年に自費千六百円を投じて
オンネユより電気の動力線を引いた。
 大正十一年秋、松浦朝治は留辺蘂より七ケ月の牝牛を購入し、大正十三年より搾乳をはじめて自家の飲用
に供した。後に大正十三年に小野寺、藤田等が乳牛を導入した。これが大和の酪農のはじまりである。
 昭和五年九月に飛行機が温根湯に来るとのことで、部落挙げて見学に赴いたが、都合が悪くなり飛来し
なくなった。不満をもらしながらみな帰宅したが、翌日の晴天の碧空に突如飛来し、初めて見る飛行機に
奇異の眼を輝かせ、歓喜に沸いた。北見富士上空を廻り、引き返したが温根湯の出穂の畑に降りようとし
て誤って稲架に引っかかってしまい墜落大破してしまった。
飛行機が温根湯に降りたとみて大木校長は松田、堂坂の両教師は生徒を引率させて見に行ったものです。
先を競いながら行ったものですが、今にして思えば全くもって笑止千万でありました。(機名は北凰号)
 昭和五年に梨田全吾の努力により温根湯より二十七号までの間、武華川左岸地区(北西側)に道路が開
通し、左岸道路と呼称した。入植、開墾以来久しく悪路に悩まされてきた関係住民は大いにその便益に浴
することができた。
 昭和六年に満州事変が勃発し、関本浩は第二師団に属し、北大宮の戦闘を緒に各地に転戦し、赫々(か
っかく)たる(輝かしい)武勲を建てて翌七年に故国に凱旋した。ほかに槙末蔵、金山年行、尾崎安信等
も同様に参加しており、無事に帰還された。
 昭和六年に佐野、荘田等の奔走によって、温根湯市街より二十九号までの間に電灯線が架設された。
二十ワットの電球が目に痛く感じられたようです。また、ラジオも入ってきました。
 以上のごとく当地域の開発は進み、日を追って発展していったが、六、七年は未曾有の凶作であった。
造田に多額の費用をかけて加えて水田耕作用の農具の購入費や水路工事などの償還金の負担も重なって大
変な苦境となった。 だから土地を担保に国策銀行である拓殖銀行から更生資金を借りたものがほとんど
であった。日々の食事にも困窮し、欠食児童もでており、これ等の児童に学校で給食が行われた。
教農工事(更生事業)が行われたが、賃金が安く、人夫は一日で四、五十銭で軍手三、四双分くらいにし
かならなかった。更生するには蚊の涙ほどのものにすぎなかった。(この地に入植以来では最も貧乏な時
であったように思われる) 網走支庁では自力更生を提唱していた。そしてこの冷害克服は全くの自力に
よる更生に踏み切ったのである。 各種講習会が開催された。対策の一環として乳牛も導入された。
堆肥の増産運動が行われ、推進された。 朝早くから起きて草を刈って積んだ。木村専治等は三万貫も堆
んで留辺蘂町一位になった。 一貫は3.75kg → 3万貫は112500kg(11トン以上)
農事視察もやった。支庁では青年の奮起を呼び掛け、一人ひとりの研究が始められ、一段と進んだ試作を
するために田畑を耕作した。その他にも適宜に研究課題を懸げて(ぶらさげ)研究もした。
早起き奨励のために早朝三時に板木が叩かれた。暁の黎明(れいめい)をついて一斉に板木が鳴り響いた。
付近一帯が起きるまで叩いた。大強者(つわもの)もいたが、中には板木を叩いてから帰ってまた寝たと
いう、あまり自慢にならないのもいた。
この自力更生運動は部落を挙げて行われた。翌年の昭和九、そして十年もまた大凶作であったから農村は
疲弊し切った。 ちなみに当時の青年団の幹部は金山長一、稲田正雄、末久順一、箭原清吉、山梨寿雄
尾崎安信等であった。 昭和八年六月上武華郵便局が開設され、荘田玉吉が初代局長となり、翌、昭和九
年は大木広規がその後を継ぎ、現在にいたっている。(昭和五十年からみて)
 昭和九年に現在の川上三区へ高橋金次郎ほか二十二集団が移住し、しばらくして川北一円は広大なもの
となった。
 また、昭和九年に旧丸玉農場旋風が巻き起こった。それは農業主が土地売り払いを宣言したことに始ま
る。この売り払いには土地ブローカー某が介在し、さらに政治家までがその黒幕であったから、小作民達
は耕作組合を結成し、佐藤権八を会長に伊藤伝を副会長にして農地解放運動を展開したが、組合員総決起
の猛運動にも拘わらず翌年も埒(らち)があかず、しばらくして翌々年の昭和十一年三月に尾崎天凬等の
努力によって民有未開墾地として開放となった。
後日に自作農維持資金(借入)償還組合を結成し、遂年(ついに)これの償還をなし、昭和二十五年に繰
上げ償還をした。(組合長 伊藤 伝)当時の団結の気風が今に残っている。
 昭和九年三月十日、時の陸軍記念日をト(ぼく えらぶ うらなう)とし三十周年記念式典を催した。
日露戦争に参加した老兵達が多数集まって、当時の実戦談に花を咲かせた。

   大和・厚和・滝ノ湯  

 大正十五年七月一日、西武華青年訓練所が開設された。初代の指導員に浦山松島就任し、以後 浦山松元、
熊谷源太郎、前田富雄、藤田五平、西永良雄、石井喜義、町田一、柴田精弥、樋口政雄、佐藤吉雄、岩瀬豊
長谷川義幸、片倉勇作らが就任し、青年の軍事教練の指導に当たった。この訓練所は後に、青年学校に変わ
り、終戦によって閉校となったが、開所以来、次々と優良壮丁(そうてい 成年の男子)を軍隊に送ったが
中でも、松谷大尉、柴田誠毅准尉等も輩出しており訓練の成果は大いに挙がった。
特筆すべきは昭和八年の訓練用の兵器の購入である。この年は久しぶりの豊作であったので、この懐を当て
込んで、松浦幸吉後援会長を先頭に幹部の並々ならぬ苦労によって一二〇〇円の寄付金を集め、これで一人
あたり十六円の装備をした。(小銃、帯剣、飯盒、水筒、背嚢(はいのう)等一式)ほかに指揮刀、図嚢、
その他もできたが、当時の装備は管内一を誇った。
昭和九年に優良校として網走支庁長の表彰を受けて大いにその面目を施した。また、後援会も同様に表彰を
受けた。まさに強者どもの夢の跡である。
青年学校になってから女子部もできた。小杉、千葉、中川の各校長の功績も大いなるものがあり、土田、山
重等の歴代後援会長の努力や会員諸氏の協力もまた絶大なものがあった。
志気連別温泉は昭和九年に福田精蔵公が入札により国より買収した後、三十六年に林野庁北見営林局がこれ
を買い取り、機械訓練所、保養所を開所した。昭和九年に滝ノ湯青年団上武華より分割し、稲田政雄が団長
となり後に笹原、稲田等が就任した。終戦の後、大和連合青年団の結成により解散した。
当時の上武華青年団は団長は金山長一で、その後 山梨寿雄、槙喜一、本田義男等が就任した。昭和十年に
優良青年団として網走支庁の表彰を受けた。また、十三年三月に道庁の幸前社会教育課長を迎えて学校にて
研修会が催され、芸術品等も陳列して盛大に挙行された。当時の団長は山梨寿雄であり、校長は千葉七郎で
であり現網走女子高校の校長であった。当時はまた滝ノ湯青年団は少数ながら団結よく、上武華青年団と協
力してよく活動した。
道路には指導標を建てたり、部落案内図もつくり学校の遊園地も造った。昭和十年に大和二十四号に農協の
種牛管理所が設置され、金原金松が管理者となり、後に二十一年に遠藤清武が管理人となる。
昭和十一年に高等科が併置されたのであるが、これの可否をめぐってオンネユ側の反対に遭い、佐野、松浦
等が協力に推し進めて併置認可となった。
昭和九年、滝ノ湯部落分割により佐野準一郎が初代区長に就任し、同年 滝ノ湯神社が改修され、志滝神社
と命名した。上武華部落からも寄付を贈ってこの建築を祝した。
昭和十二年六月に天皇陛下の行幸を記念して上武華青年団の手によって大和の学校の門柱を建設した。
大工には下込則松が、左官には堀慶一があたった。運動会にはこれを披露し、部落民はその厚意を喜んだ。
 昭和十二年に日華事変が勃発し、平和な部落にもざわめきが起こった。同年の七月に松浦幸吉、末久順一
遠藤文八郎、岡崎孝平氏等に招集令状が届いた。この年の内に槙栄治、本田吉太郎等も応召となり、以後は
数十人の兵士が召されて行った。当時の区長は上武華は本田栄太郎、滝ノ湯は佐野準一郎であった。
戦争は長期におよび且つ熾烈を極め、女子まで軍事教練が施され、防空演習が行われ、灯火管理が敷かれた。
働き手の主力を失った農村は学校の生徒が援農に赴いた。松の葉を蒸し返して油を採り、軍隊に送った。
男も女も勝ち抜くまでは、と頑張ったが戦いは遂に利非ずに敗戦となった。召された兵士達は続々と故国へ
帰ってきたが、戦いの勝利を信じつつ戦死した者は白木の箱で遺族と対面した。幾柱もの英霊に対し、謹ん
で哀悼の意を表する次第であります。
 昭和十四年七月に滝ノ湯神社の境内に殉馬の碑を建立した。以後七月十七日は馬頭祭を挙行し、盛大な式
典が催され、且つそれに学校の生徒会も参加して、学生相撲(角力)が行われている。境内には春ともなれ
ば桜花爛漫さながらに、また校下を一望にしての遊園地でもあった。
戦死者の氏名は次のとおり、佐野一郎、横尾大三、高田辰江、真壁真一、柴田亀吉、山田久一、俵谷直義、
俵谷環、俵谷茂、山梨増三郎、長谷川正幸、馬場好巳、中岡正一、高橋晃、町田二、松浦広、槙留雄、渡辺
長兵エ、鈴木義雄、渡辺幸雄、館山正市、武市克己、藤田武夫、佐々木武平、箭原清吉、藤江俊夫氏等であ
る。また、岩瀬勇氏は南支珠江作戦の武勲により、功七級金鶏勲章を授与された。
 昭和十四年の満蒙開拓の叫びに呼応して岩瀬栄、山下正一、箭原清吉、金山長一、松浦初治、松浦兼治ら
が満州開拓に赴いた。また、軍需産業の拡大により槙喜一は室蘭へ、西永良雄、武田繁治、武田武男、土田
増次、槙末蔵、野尻新吉氏等は砂川硫安工場へと転出した。
昭和十四年に伊頓武華(イトムカ)に野村鉱業株式会社が水銀鉱の採掘を始めた。
昭和十五年に大和二十五号の川原に馬検所を建設した。同年に字名改正により、大和、川北、滝ノ湯の各区
に分割され、さらに小区に分割した。
昭和十六年の六月に野村鉱業のトラックが上武華橋通過の際に橋げたが折れて河中に転落し、多数の死傷者
を出した。凄惨な状況は眼を覆い、付近住民が駆けつけてこれを救護した。同十六年十月に本田精米所付近
より二十九号までの間の道路が開通し、対岸への交通は便利となった。同年に大和小学校の校舎の建築が完
成した。また、十八年には志気連別へ官行軌動の引き込み線が開通し、志気連別沢の運材を始める。
戦争苛烈(かれつ)の中にあって、部落挙げて銃後の守りに挺身した。統制経済の中に至って耐乏生活は続
けられた。「欲しがりません勝つまでは」の標語もあったし、隣組の歌等が唄われて、せめてもの慰めであ
った。暫くして昭和二十年八月十五日、ついに終戦の大詔はくだされた。
敗戦は信じたくもなかったが、事実は厳粛なものであった。呆然自失と仕事も手につかぬほどの衝動にから
れ、海外に赴任していた兵士や親戚の安否が気遣われた。
 米軍の駐留が開始され、この田舎までもマッカーサーの重圧が感じられた。不安な毎日が続いたが、それ
でも毎日果てるとも知れない泥沼のような戦争から解放された安堵感もあった。

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